ハレルヤ!
最近、洗濯機が
ガタン!ガタン‼︎ゴゴゴゴゴ…と言いながら回っているので
大丈夫か?(゚ロ゚;)
と、洗濯機の寿命を心配している
あおです。(-ω-。)
さて、今日は
『ありのままのあなたでいいんだよ』
『ありのままのあなたが素敵だよ』
という、
よく聞く心温まるお言葉(-∀-`)
に『ほんとうにそれでいいの?』
と突っ込みを入れるお話
です。╭( ・ㅂ・)و̑ グッ
+*:.。.
『ありのままのあなたで良い』
『あるがままの自分を認めてあげよう』
という言葉は、
ある場面においては必要で
有益な言葉です。
それはどんな時かと言えば、
ある人が自分自身に対して
客観的ではない、主観に満ちた 最低の自己評価しかつけられず、
とにかく自虐的になって自分を過小評価している時
自分自身の現実を受け止め、肯定できない心理状況に陥っている時です。
しかし、この言葉は常に有益ではないのです。|ω・`)
どんな話か
聞いて(読んで)みてください。(。-ω-)ノ
たとえば、
『サツマイモが好き』な人
を考えてみましょう。
その人がいくら、サツマイモが好きだったとしても
土から掘ったままの
生のサツマイモは、かじりませんよね。!(乂∀・)
最低限、
蒸すなり焼くなり煮るなり
火を通して食べます。
そして、可能ならば
よりサツマイモを美味しく味わえるように、
料理して食べたい!
と、考えます。
これは、
素材 “そのまま” では
その素材の味を楽しめない
味わえない。
だから
料理し、“作ってこそ”
その素材の味を楽しめる。
ということですね。(*・∀・)ノ
人間は “楽をしたい” と思うことで、
洗濯機や電子レンジ、食洗機などを開発しました。
もし、
“ありのまま”
“あるがまま”
で満足したなら
現代でも、チンパンジーと大差無い生活を
していたのです。
人類の歴史、文明の利器を見れば
《素材を生かして作る》ことによって
より理想的な世界につくったことが 明らかです。
個人の人生も同じで、
《作ってこそ》
もっと理想的に生きる
ということを、先生が教えてださいました。
《ありのままのあなた》を認める・素敵だと思うことは
《素材・原石としての自分の価値》を認め
感謝し、喜んだらいいという話であって
決して
「サツマイモそのままかじっても美味しいよね」
ということにはなりません。(`・д・)
楽をしたい と思って
“作らないままの楽” を選んだら、
一時的には気が楽であっても
むしろ
“作られていないがゆえの苦痛”
を自ら受けるようになります。
自分をつくって、
“できた人” になったら
自分も楽で、相手も楽です。+*:.。.
<先生>も、
まずは自分をつくるところに使われた。
神様の御言葉を正しく悟って
実践してつくるところに使われ、集中的に自分を磨き 削るところに使われた。
そうしながら御言葉を伝えることもした。
特に<テモテへの第二の手紙2章21~26節>を読みながら「自分をつくり用意しなさい。特に青年の時に情欲を避け、自分を清くつくりなさい」
という御言葉どおりに
世の中の愛を避けて打ち勝ち、
山奥で一人で義なる者につくった。
また<平和>につくり、「血気」と「憤り」と「無知」などを悟り
<柔和>につくった。
そして<神様の御言葉を正しく知る人、
神様と聖霊様と御子とイエス様を正しく知る人>につくった。
<神様と聖霊様と御子>を絶対に信じるようにつくり、
<絶対真理>を悟って「絶対実践」するようにつくった。
<肉体>を健康につくって、困難にぶつかっても戦って勝つようにつくった。
またよい時も悪い時も
最後まで行なってこそ、
それまでの労苦が無駄にならず実を結んで得るようになり損をしない
ということを悟って、
<最後までする精神>をつくった。
鄭明析氏の箴言より
先生は、人間の真の価値をご存じで
その素晴らしい素材、原石のような人間たちを
どのようにつくったなら
最高の人生になるのかを
ご自身の生き様で、実践で見せてくださっています。
そして
性的な愛はもちろん、
地位や名誉、富・財産・遺産などに対する
“情欲” は
若いころから捨てて 生きてきたそうです。
先生がそういったものに目も心も奪われずに
ただ神様との愛に集中していらっしゃる方だ というのは
私も直接 先生にお会いしたので、分かります。
『ありのままのあなたでいいよ』
という言葉に付いて行ったら
サツマイモを生でかじる人生。
『自分をもっと素敵につくろう』
という言葉に付いて行ったら
サツマイモ料理を食べる人生。
私は、
サツマイモ料理 を選びます (*・ω・)ノ。:.゚アンニョン*