ハレルヤ! あお です (*・∀・)ノ*
今日は、
『泳げたいやきくん』
の歌詞を考察してみたいと思います。
え??? @( o・ェ・)@ナニナニ
なんで、そんなことするのかって…!??
それは、なぜか昨日から
「まい-に-ち-まい-に-ち-
ぼくらはてっぱんのオ
う-え-で-や-か-れ-て-
イやに-なっちゃうヨォ-」
って
(ふと何度か)頭に流れてきたからです。
これは何かメッセージなのかなぁ
と思ったので、
考えてみることにしました☝︎•*♪
さて、
イエス様の一番弟子と言われているペテロ。
彼は、もともと漁師でした。
つまり、
【まい-に-ち- まい-に-ち-】
漁をしていたわけですネ。(。-∀-)ノ
そして、考えました。
『このまま毎日
ただ漁をして、生きていくのか?
これで良いのだろうか?』
毎日、
ただひたすら同じことを繰り返している
自分の人生について考えていたのですね。
そんな時 イエス様に出逢い、
ペテロの心に答えを与えるような
人生についての御言葉を
イエス様が話されたそうです。
御言葉に感動したペテロは、
そののち弟子になりました。
『泳げたいやきくん』の「ぼくら」は
“たいやき”
というひとつの単位ですね。
(個々のたいやきにフォーカスしたら、
焼かれては誰かのお腹に入ってしまったのでしょうから…。
一度きりの人生です…。)
この“たいやき”というのは、
【人類、人間】に置き換えれば、
上のペテロと同様、
{人間の一般的な心理}です。
人は、
毎日同じ次元
同じ世界
同じこと
を繰り返していると
【イやに-なっちゃうヨォ-】
ということですね。(。-ω-)ウム
“たいやきくん” は結局
鉄板の上から海に行って、
か〜な〜り しょっぱくなって
最後はおじさんに食べられて
人生が終わりました。(-ω-。)
なので、
“食べられて終わり”っていうところは
他のたいやきと変わらないのですが
ただ、
その【食べられるまでの人生の中身】は
他のたいやきとは【違うモノ】
にできたわけです。
鉄板の上から出て行かなかった たいやきは、
“その他大勢のたいやき”
として生涯を終えたのですが
海に出てみた たいやきくんは、
歌詞の主人公になって、
“後世にまで知られるたいやき”
(でも たいやき)
になったのです。
主なる神は言われる、
「見よ、わたしがききんをこの国に送る日が来る、それはパンのききんではない、水にかわくのでもない、主の言葉を聞くことのききんである。
彼らは海から海へさまよい歩き、主の言葉を求めて、こなたかなたへはせまわる、しかしこれを得ないであろう。
アモス書 8:11-12
塩水の中を
泳ぎに行ってみますか?ヾ(*・∀・)/
以上、
水泳が苦手(25メートルも危うい)な
あおの考察でした.。:+゜