ハレルヤ!あおです。ヽ(・∀・)ノohisa~
お元気でしたか?
私は夏の終わりごろに
1年くらい携わった、大仕事っぽいものを引き継いだので
しばらく充電器におさまって(はさまって?)いました。
久しぶりに何を書くのかというと
『純愛はなぜ 尊いのか?』。。。(・∀・)
“純愛ストーリー”ってあっちにもこっちにもありますよね。
時代が移り変わっても
きっと無くならないんじゃないでしょうか。
それはもちろん、人々が欲するから。
ニーズがあるから作られるわけです。
フィクションだろうが、誰かの妄想だろうが
そういうのを見て感動したい・・!
そういうわけ、ですヨネ。|ω・`)
ココで唐突に╭( ・ㅂ・)و̑ グワシ
わたくしの“ノンフィクション”のひとつを
小話として出すと、
(たしか)中学生だった ある夜
もうベッドでうとうとしていた その時
うっすらドアが開いていたのか
隣のリビングで話される夫婦の会話、、、
漏れ聞いた内容は
父が母に向かって、自分の浮気を堂々と認め、
そして
「俺が浮気をしたのは あんたのせいだ」と
言い放つ言葉だったのでした。ヽ(-ω-。)ネヨウトシテタノヨ ワタシ
その部分だけが記憶に残っていて、
(きっと寝たのだ(。 =_=) )
何か、母が言い返したのかどうかは
わかりません。
そして私のからだ(細胞?)には
「結婚=幸せ」 ではない
という公式がしみついたのです。
人は、
一人でいる時の<孤独>より
もっと
一人じゃないのに<孤独>
であることの方が、
“痛い”んじゃないかって
思います。(-ω-。)
【ひとりでいる孤独】は
むしろ人を奮い立たせたり、意気込ませたりするから。
でも、
【ひとりじゃないはずなのに、孤独】なら
人はそこからきっと「出ていきたい」と
思うことでしょう。
なんとなく通じます?(-∀-`)
【ふたりでいる孤独】は
きっと耐えられない苦痛だ
と、私は思います。
人は孤独じゃなくなることを望んで
誰かと共に過ごすのに
誰かといる時の方がもっと
孤独を感じたりする…
不思議ですね。
物理的なものが
孤独を救うわけじゃない
ってことでしょうネ。
はてさて、話は戻りまして
というよりは
ずっと順調に線路を進んでいるのですが、
私たちの直面する現実はこのように
純愛の逆路線が
もっとずっと多い
というお話です。
だから、フィクションででも
作らないと
純愛を見られない
感じられない
出会えない。
そういう世の中。
本来、“愛”は
純なもの
まっすぐで
どっかにいかないもの
なんだって、
信じたいから。
その気持ちに合わせて作り出される、“夢のような”物語。
“奇跡”の話。
それが純愛ストーリー。お涙ちょうだい。
(。´Д⊂)
そういう世の中。
最近、自分の中で
すごくフラットに ニュートラルに
至極自然に
ストンと
受け入れられたことのひとつ
それは
‐人間の弱さ‐
です。
人間は本当に弱いんだって。
ほんとうに本当に
弱いんだってこと。
神様から見たら、人間はあかちゃんのようだと
先生がおっしゃったのですが
ほんとうにそうなんだろうって。
生まれたての
はだかんぼうの
あかちゃんのように
≪弱い人間≫なんだ
って。
浮気は ‐弱さ‐
不倫は ‐弱さ‐
はじめの愛を貫くことは
‐強さ‐
何かを守りたいって
大切な人を大切にしたいって
あいしている って貫けるのは
‐強さ‐
本物の愛は強い。
そしてそれは、人を感動させるチカラがある。
人が最も感動するのは、後にも先にも
愛なのでしょう。
だから、人々が
先生の何に感動するかって
一番はやっぱり
人間の命と、神様に向かう愛が
まっすぐで
生涯、貫かれてて
無くならないこと
ではないでしょうか。
人々を感動させてやまない
“ノンフィクション”の純愛ストーリーを
多くの人が見られますように
祈りを込めて。
アンニョン。ヽ(・∀・*)
わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。
ピりピ人への手紙 4:13
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