ハレルヤ! あお です (*´∀`*)ノ。+゜*。キラキラキラ-
春のあたたかさを感じながら.。:*+゜゜
友人とカフェに行って来たのですが、
『気まぐれパスタ』というメニューの内容を尋ねたら、
「少々お待ちください。」と言われて、
そこで店員さんが厨房に戻って行って
メニューを相談し始める((゚ロ゚;)エェッ!?)
という展開に2人で笑いながら、
結局違うメニューを注文した
あお でし(。-ω-)ノ*。(キマグレニモ ホドガアル)
さて、今日は
“居場所”
についての 知見を
書いていきますね…( ..)φイソイソ
みなさんは、
『ここが自分の“居場所”だ』
と感じたことはありますか?
どんな場面で感じたのですか?
私が思うに、人がそのように
“自分の居場所”を
認識する時っていうのは、
“場所” (スペースや環境、コミュニティ)を認知するのではなく、
おそらく、
“ほんとうの私(自分)”を認知した時(瞬間)
ではないかと思うのです。
なぜなら、人がどこかの組織や環境に存在する(ことを認められている)こと自体が、その人に“居場所”を実感させるわけではないからです。
“居場所が無い”、という感覚の根本は
“ほんとうの私(自分)でいられていない”、
ということではないですか?
ところで、私には弟が2人いますが、異父兄弟です。
なので、「私がいなければ、(他の4人で)普通の家族になれるのに…」とよく思っていました。
この何とも言えない感情に
“疎外感”
という名前があるということは、大学生の時に知りました。
“自分の居場所を感じること”と、“疎外感”は、
南極と北極の関係かもしれないですね…。
そのようなことがあったので、摂理に来て
「ここは家族以上に家族みたいなところだヨ。」
と言われた時は、
なんだかホッとしたのを覚えています。
(´∀`*)♡
愛は、
その人をその人でいさせる力があると思います。
“わたし”が“わたし”でいていいのだ、
と感じさせる力があると思うのです。
真実な愛があるその場所では、
“わたし” が存在できるのです。
それは、
『誰かにとって都合のいいわたし』
でもなければ
『私にとって理想的なわたし』
でもなく、
『こうであればいい(と思っている)自分』
でもないのです。
何かを信じること(信仰)についての
日本人の大きな誤解は、
【洗脳されるのではないか?】
【私が私でなくなってしまうのではないか?】
という恐怖心です。
でも、
その信仰を持つ場所が、
{真実な神様の愛の世界}であるならば、
人はむしろ、
【わたし(自己)を取り戻すことができる】
のです。
摂理はひたすら、愛の実践世界です。
たといわたしが、人々の言葉や御使いたちの言葉を語っても、
もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘か騒がしい乳鉢と同じである。
たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、
もし愛がなければ、わたしは無に等しい。
コリント人への第一の手紙 13:1-2
今日のカフェがとっても気に入ったので、
また誰かと一緒に
行きたいと思います(人´∀`*).。:*+