自分を愛するように あなたの隣り人を愛せよ

自分を愛するように あなたの隣り人を愛せよ

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ハレルヤ~!あおです。

 

少し前の出来事なのですが、ちょっと時間ができたので

やっと筆を執りました。φ(.. )

 

去年の初冬に個人的に嬉しい出来事というか

長年の心のつかえとなっていたことが解決されることがあり

 

そのことを過去の経緯も含めて知っている方々 数人に

報告をしたところ

 

『自分のことのように 嬉しい!』

という反応をもらいました。(*´∀`*)

 

このことについてお祈りしていた時に、

【これが隣人愛の最骨頂なのだな】

と気付くようになりました。

 

 

マタイによる福音書にとてもよく知られている聖句があります。

こちらヽ(・∀・)ノ

 

イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。 

これがいちばん大切な、第一のいましめである。 

第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。 

これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。

マタイ22:37~40

 

隣人愛についての聖句と言われるのはこの部分ですね。

 

第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。 

 

今まではこの聖句について気付いたことと言えば

 

“自分を愛するように”ということは、

自分のことをまず愛せていなければ

他の人のことも、

その程度(自分をあまり愛していない程度)にしか愛せないよな

・・・(-∀-`)

 

ということだったのですが、

 

今回気付いたことというのは、

 

相手の喜びや痛みを、自分の喜びや痛みとして感じられること=最高の隣人愛

 

というものです。|・ω・`)ノ

 

 

キリスト教って《兄弟愛》という考え方があると思うのですが、

思い出されるのがこの聖句。

 

からだが一つであっても肢体は多くあり、また、からだのすべての肢体が多くあっても、からだは一つであるように、キリストの場合も同様である。 

なぜなら、わたしたちは皆、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によって、一つのからだとなるようにバプテスマを受け、そして皆一つの御霊を飲んだからである。 

実際、からだは一つの肢体だけではなく、多くのものからできている。

もし足が、わたしは手ではないから、からだに属していないと言っても、それで、からだに属さないわけではない。 また、もし耳が、わたしは目ではないから、からだに属していないと言っても、それで、からだに属さないわけではない。 

もしからだ全体が目だとすれば、どこで聞くのか。もし、からだ全体が耳だとすれば、どこでかぐのか。 

そこで神は御旨のままに、肢体をそれぞれ、からだに備えられたのである。 

もし、すべてのものが一つの肢体なら、どこにからだがあるのか。

ところが実際、肢体は多くあるが、からだは一つなのである。

目は手にむかって、「おまえはいらない」とは言えず、また頭は足にむかって、「おまえはいらない」とも言えない。

そうではなく、むしろ、からだのうちで他よりも弱く見える肢体が、かえって必要なのであり、 からだのうちで、他よりも見劣りがすると思えるところに、ものを着せていっそう見よくする。

麗しくない部分はいっそう麗しくするが、 麗しい部分はそうする必要がない。神は劣っている部分をいっそう見よくして、からだに調和をお与えになったのである。 

それは、からだの中に分裂がなく、それぞれの肢体が互にいたわり合うためなのである。

もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、一つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に喜ぶ。 

あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりはその肢体である。

 

コリントⅠ12:12~27

 

個性通りにみんな大切で

他人と比較する必要が無い。

 

ということでもありますが、

 

特に 神様にとっては

誰一人として同じ人はいない

【その一人】が

かけがえのない者として存在していて、

 

他の人が取って代わることができない、唯一無二の相手として

神様は 愛してくださっている

ということを

 

先生が教えてくださいました。.:。+゚

 

 

と、これはこれで

神様と人間との間のお話なのですが、

 

今回は隣人愛のことなので

人間同士のことで

何に気づかされたのかと言うと、

 

この箇所↓

 

もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、一つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に喜ぶ。

 

神様にとって、唯一無二の存在である一人一人は

互いに比較して

妬み嫉妬をする必要が無いんだよ~~~(-∀-`)

 

という一方で、

各肢体同士(手と足、とか 目と鼻、とか)は

それぞれの悩みも、喜びも一緒に感じ合うようにできている。

 

だから、

 

あなたはあなたで、私は私だよね!

 

っていうのとは、

ちと 違うわけなのですな。(。-ω-)フム

 

 

たとえば、

誰かが悲しんでいる。

 

“でも神様が愛してくださっているんだから!”

他人事として放置してしまうのと、

 

「私のことのように悲しい」

自分事のように一緒に悲しむ人がいたら

 

どちらが、果たして

神様の心にかなう人 でしょうか?

 

誰かに喜ばしい祝福が訪れた時、

 

“人は人、自分は自分”

と無関心であるのと

 

“自分のことのように嬉しい、おめでとう!”

と思うことでは、

 

どちらが

 

《自分を愛するように、隣り人を愛している人》でしょうか?

 

言わずもがなですよね。 (´◡`) 

 

 

最近は、

【個を大切にする時代】

【個性を尊重し、多様性を受け入れる時代】

になってきていて、もちろん素敵な時代の流れだと思います。

 

でも、そこにこの

 

『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』が無かったら

 

その世界はとても無慈悲で、非情な世界になると思いませんか?

 

 

このように考えると

神様の作ろうとされる世界って、

とってもバランスのとれた、

調和と平和がある世界なんですよね~

。* ゚ + 。・゚・。・ヽ(*´∀`)ノ

 

そこがすごく神秘的です!

 

何事もバランスって大事だと思うのですが、

(栄養バランスとかね!)

 

相手のいる世界って、なかなか難しいものがありますよね~

 

特に夫婦の間柄だったりすると

 

《あなたはあなたで、私は私》っていうのは

 

なかなか “危険な香りのする思考” だよなって

 

最近ふと思いました。(-ω-。)フトネ

 

 

【自分ではない誰か】を前にして

 

相手の痛みが自分の痛みになって

相手の喜びが自分の喜びになるなら

 

世界に戦争がなくなって、

離婚とかも無くなる気がしますね。(´・ω・`)

 

 

たまに、神様を信じている人達がどうして戦争するんだろう?って

思う人がいるそうなのですが、

 

それは

 

神様は愛してるけど、目の前の人間を愛せなかったから

 

が、答えです。

 

 

《自分ではない誰か》の痛みを

一緒に感じられるように寄り添って

 

《自分ではない相手》の喜びが 自分の喜びになり

 

《自分ではない他の人》の幸せが 自分の幸せになる

 

そういう愛が自分の中に満ち溢れたら・・・

 

なんてことを、

つくづく考えさせられた、この冬なのでした。⛄

 

 

そうそう、

ユダヤ人がイエス様を、キリストとして迎え入れられなかった原因も

この隣人愛(兄弟愛)ができなかったからだと教わりました。

 

神様はすごく愛して、救い主の出現を待ち望んでいたユダヤ宗教人たち。

 

でも自分たちの身近なところから生まれて成長した、いち青年を

メシヤ(キリスト)として受け入れることはできなかった。

 

それは、神様は愛したけど、目の前の一人の青年を

愛してみることができなかったから。

 

 

隣り人(自分の身の回りの身近な誰か)を愛せなかったら

嘆きの壁にまっしぐら!

だと肝に銘じないと・・・・(;´∀`)

 

 

自分を愛するように、すぐ近くの誰かを愛すること。

 

(実は最も身近な人こそ ないがしろにし易いという罠も・・・ある!かも)

 

 

ほ~ら あーなたにーとって~

大事なひーとーほどー すぐーそーばーにいるの♪

 

 

なんて歌もあったなぁ~・・・(  ¯ ³¯).。o○ と思いながら笑

今日は締めくくりたいと思います!

 

 

それでは また!(。・ω・)ノ☆ アンニョン* 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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