ハレルヤ! あお です ( ˘ ³˘)*。
人生を、
長く生きられるようにと
神様が、
“医療”も、発展するように
してくださったのだそうです。
しかし、
“ただ長く”生きさえすれば
【良い人生】
に、なるのではありません。
{どのような人生を生きるのか。}
これが、
{問題}です。
しかし、人の子を裏切るその人は、わざわいである。
その人は生まれなかった方が、彼のためによかったであろう
マタイによる福音書 26:24
イスカリオテのユダは、
イエス様を売り渡して
十字架にかかるように仕向けた人です。
このあと彼は
自分のした事を後悔し、
自殺してしまいます。
イエス様は、
「“彼のために”
(むしろ生まれなかった方が)
よかったであろう」
と言いました。
“イエス様のために”
ではありません。
【彼の】ために
です。
先生は、
このように話されました。
「100歳を越えたら、
生きても生きることではない。
息をするだけで、寝て、食べて、
やっとのことで
自分の生活をするだけで生きるのに、
そのように長く生きて
何になるのか。」
{何になるのか。}
自分の人生において、
{何を残すのか。}
これが重要ではないでしょうか?
それも、
“自分のために”
何を残せるのか、
考えてみないといけません。
“誰かのために” と言ってみるけれども、
それは所詮
その人の主観的な考えで、
“本当に相手のためになっているのか” は
《相手が決めること》
になるからです。
“自分自身に” 残すものが無い時、
人は結局、
後悔することに
なります。
死の恐怖の実体は、
実は
【喪失感】です。
{どのような人生を生きるのか。}
つまり、
{自分の人生で
自分のために、何を残すのか。}
この問いの答えは、
この問いの答えは…
ヽ(・∀・)ノ
《自分では決めることができない》
ものです。
自滅したユダは、
“◯◯のために” と言いながら、
主観的に生きたのです。
このように、
主観的な考えは、
自分を滅ぼします。
人に対しては
謙遜であることを良しとしながら
神様に対しては
傲慢に生きるのなら、
主観的な人生
【自滅人生】
になってしまうということです。
“何を残していけるのか”
相手のためにも。
自分のためにも。
それは、
《対象が決めること》
なのです.。:*+゜