“死” と向き合う。

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ハレルヤ! あお です (。-ω-)ノキョウモ カオモジスクナィヨカン
 
 
春になると思い出すことがあるのですが、
自ら命を絶ってしまったひとたち
のことです。
 
 
 “自分と関わりのあったひと” を、
自殺で亡くしたことは
ありますか ?
 
 
私は、
 
同じ日に生まれた幼なじみと  
初めてのバイトで私を教えてくれたパートのおばさん
 
を亡くしました。
 
 
幼なじみとは幼稚園までが同じで、小学校からは別の学校でしたが、共通の友達がいたので、たまに会うことがありました。
 
訃報を聞いたのは、確か高校1年になる時くらいだったように思います。(記憶が曖昧)
 
 
その時の感情は、今思い出しても
よくわかりません。
 
 
“同じ日に生まれて、
その子の時間はもう動かなくて
私の時間は動いていく”
 
ということを考えた時、
ただ涙が流れたのを覚えています。
 
 
もう1人は大学に入る直前の春休みに、
バイト先で私のトレーナーになってくれた人で、
旦那さんの事業を手伝うためにしばらくパートを休むことになり、
最終日に、私の初心者バッチみたいなのを
「置きみやげね」と言って、笑って外してくれました。
 
 その一ヶ月後に訃報を聞きました。
 
 
 
“死” とは なんでしょうか。
 
 
この【問い】は
 
“生きる”とは なんでしょうか。
 
という【問い】でもあります。
 
私は、2人の自殺を受けて
 
『死ぬことより生きることの方が
  大変なのか?』
 
『死ぬ方法はいくらでもあるのに、
  なぜ、生きるためには制限が多いのか?』
 
と考えました。
 
 
“なんとなく”
 
生きることもできるでしょう。
 
“なんとなく” 歳を重ねて、 
 
“なんとなく”楽しみを見つけて。
 
でも、
“なんとなく”では
生きられないひとがいたら…?
 
 
真剣に、【生】と向き合うひとがいたら…??
 
 
【生】と【死】を前に
選択をしようとするひとが
いるのなら、
 
 
そのとき
 
“救い主” は必要で、
【真理】は “必要” なのです。
 
 

わたしは道であり、真理であり、命である。
ヨハネによる福音書 14:6

 

2件のコメント

  1. SECRET: 0
    PASS: 74be16979710d4c4e7c6647856088456
    私は家族が自殺しました。摂理に来る前でした。摂理に来てからもずっとそのことで苦しみ続けました。
    結果的には長い時間を経て、その過去を「一人で」「背負う」のではなく、「主と」「抱いていく」人生に変わりました。
    ほかにも、家族を自殺で亡くしたメンバーを知っています。
    私は、人の痛みが分かる人間になれたことを感謝しています。
    自分と自分の家族の人生について、誇りを持っています。

    たんたん
  2. SECRET: 0
    PASS: 74be16979710d4c4e7c6647856088456
    たんたんさん。
    コメントありがとうございます (´◡`)
    主の中で答えを出されたのですね。
    いろんな葛藤や感情の中で、感謝と誇りを見つけられたのは、すごいことだと思います。

    あお

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