“自分を愛せない”  “自信が無い”  それはお面をかぶった高慢さ

“自分を愛せない” “自信が無い” それはお面をかぶった高慢さ

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ハレルヤ!あおです。(*´∀`)ノ。+゜*。

 

今日は、

一見すると”高慢”とは縁遠く見える

“自分を愛せない” とか “自信が無い”

といった 日本人にとても多くみられる根性について

 

私が御言葉を学んで

気付くようになったことを書いてみます。φ(.. )

 

高慢自体を神様は忌み嫌います。

なぜかというと、高慢にはサタンが介入しているし、死亡、サタン、悪魔、悪霊が介入しているから気分が悪いんです。

 

だから、高慢は滅亡に先立つ。

高慢だと失敗する。

うまくいくはずのこともできなくなる。

高慢な人は死亡圏に属している、と言います。

 

鄭 明析(チョン ミョンソク)氏の説教より

 

高圧的な態度や、相手を見下した言動を見たら

『高慢な人だ』と思います。

 

しかし、一方で

自分に自信が無いとか、

自分を愛せずに自虐的で、自暴自棄しやすい人を見て

 

『高慢な人だ』

と言うでしょうか?

 

 

今日はこの一見すると “高慢” には見えない、

むしろ【謙虚・謙遜】に近いような【お面】をかぶっている

 

『高慢ちきちき』の

 

仮面をはいでやろう( ✧Д✧) و̑ グッ

 

という

 

魂胆です。(-∀-`)ハハ

 

 

人生において神様のことを知らないから、

神様について正しく知らないから高慢になります。

 

きちんと知っているんだったら、高慢になることはできません。

 

聖書では高慢な人達は全て退けて存在できなくしました。

だから、高慢な人は自分を叩きのめして、叱らなければなりません。

 

 

“自分を愛せない” とか “自信が無い” といった心理状態を

もう少し分解してみると、こういうものが出てきます。

 

“こんな自分は嫌だ。認めたくない”

“もっと○○でなければ、自分の姿として不十分だ。(私が)満足できない”

“私はもっと○○でなければダメだ”

 

この背景には必ず

『理想の自分』と『現実の自分』の

ギャップ、乖離が存在しています。

 

 “理想の自分を思い描く” こと

それ自体は問題ないとして、

 

問題なのは、

『現実の自分』を見る目

つまり、その考え方です。

 

 

いったい、自分は何者だから

 

『あるべき自分の姿』

 

を、そんなに高く見積もるのか?

 

 

そうであるべき自分

そうであってほしい自分

きっとそれくらいの能力があるはずの自分

それくらいの実力を持っているに違いない自分

 

これは『理想の自分』というよりは

 

【うぬ惚れた自己認識】

 

です。

 

 

うぬ惚れによる高ぶり=高慢

 

に他なりません。

 

 

いったい、人間が何者ならば

自分のこぶしで

どれほどのことができると言うのか?

 

いったい何者であるならば、

自分の能力の限りを尽くして

理想の超人になれると言うのか。

 

 

これは、神様を正しく知らないからです。

 

 

神様について無知だから

人間である自分のことも

正しく知らないのです。

 

 

自分のこぶしを信じるような高慢な人が

神はいないとか

人間が考えた存在だとか

言ったりします。(-ω-。)

 

 

でも、神は

 

そもそも人間の考えの範疇に

収まる存在ではありません。

 

 

宇宙の中にある地球に住む人間は

宇宙の広さを正確に知らない

 

でも

 

宇宙の外に存在する神様は

宇宙の広さを正確にご存じです。

 

 

神様の目の中に人間が存在することを知らなければ

人間は高慢な考えを持つようになります。

 

身の回りの世界が自分の願う通りでなければ失望し

不平不満を言うし

 

自分の能力や権力は、

自分の考える通りに存在していると

勘違いします。

 

 

旧約聖書でソロモンは<1千回の祭壇>を捧げて

神様に知恵を求めました。Σ(・ω・ノ)ノ!

 

新約聖書では

ペテロがイエス様の前で、

自分は罪人であると告白しました。

 

 

自分の足りなさと

現実の自分の実力や次元

 

<あるがままの姿>

<自分の位置>を認める時

 

人は神の能力と御力、知恵と聡明さを前に

「それをわたしに与えてください」と

願い求めるようになります。

 

 

自分の足りなさを認められない時

受けいれられない時

 

ーあるべき自分はこうではないー

 

その考えに支配されている時、

人は神様に向かうことができません。

 

 

天を仰がないで、地面を見つめています。

 

 

能力が無い

実力が無い

自分の力ではできないことを認める時

 

謙虚で謙遜な人になります。

 

だから

 

神様の力がなくてはいけない

神様の知恵と知識が無ければできない

自分だけでは永遠に事足りないのだ と

 

そう思えるなら、

神様の前で 謙虚で謙遜な人になります。

 

 

自分だけで

自分が成立するのではなく、

 

いかなる自分も

神様なしにはあり得ない。

 

 

そう思う時、

 

お面をかぶった高慢を投げ捨て、

 

自分の価値を正確に見つめて

 

神様に愛されている自分を見つけ出し、

 

 

自信と

自分を愛する勇気を

持つようになります(´◡`)。* ゚

 

 

このことに気づいたきっかけは

 

神様の前でどこまでも謙虚で、謙遜に生きている

 

先生の姿をずっと見てきたからです。

 

 

先生は礼拝の説教をするときも、自分の好きな話をするのではなく

神様が話されたいことに神経を使っているし、

 

説教のあとも

神様に「説教どうでしたか?」と聞くそうです。

 

『私がこんなにうまくやったぞ!』という考えが

先生には いつだって ありません。

 

ただただ、神様がご覧になってどうだったのかを

神様に尋ねていらっしゃる姿が

 

 

ほんとうに《”自分”の無い生き方》をしていらっしゃるんだなと

つくづく感じてきました。

 

 

高慢さの根源は結局

【自分を立てていること】

ですよね。

 

 

先生は絶対に

どんなに多くの人々を前にしていても

 

自分を立ててもらう気がサラサラ無いのです。

 

 

先生はいつも神様にお仕えしていて、

「先生は神様のお使いをする人だよ」とおっしゃるし、

 

多くのついてくる人たちに対し、

自分に仕えてもらおうと願うことはなく

 

むしろ

 

先生の方が、

まるで多くの人たちに仕えている立場かのように接して

生きてこられました。

 

そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、
「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者と見られている人々は、その民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。

しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。

かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、
あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、すべての人の僕とならねばならない。

人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」。

マルコによる福音書 10:42~45

 

 

本当に先生は、

イエス様から学んだことを、その通りにやっていらっしゃるのだなと

感じられる生き方をしています。

 

 

神様の前でも人々の前でも

道理を外すことなく

謙虚で謙遜な人格をつくろうとするなら

 

私は迷わず

先生をモデル・お手本にすればいいと思って

見習って生きています。

 

 

高慢ちきちきを隠している、

きな臭い【偽りの謙遜】ではなく

 

まっさらですがすがしい、

【本当の謙虚と謙遜】を

 

先生から学べたことに

 

心から感謝しています。

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