摂理は自由を奪うのか?自分を縛る宗教なのか?

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ハレルヤ!あおです~~。ヽ(・∀・)ノ♪

 

今日は、

 

『宗教は自分を拘束し、自由を奪い、

自分の人生を制限されるものなのではないか?』

と考えている人に向けて、

 

“摂理はそのあたり、ぶっちゃけどうなの?(・∀・*)”

 

という内容を書いていきたいと思います。 

 

自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。

だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない。

<ガラテヤ人への手紙 5:1>

 

また真理を知るであろう。

そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」。

<ヨハネによる福音書 8:32>

 

聖書を読んでみると

 

私たちはキリストによって解放され

自由を得られるということ、

 

そして真理によって自由を得られる

ということが書いてあります。

 

摂理の教会では

この『キリスト』と『真理』について

1番 詳し〜く 教えてくれます。

 

それはもう、耳にタコだけじゃなく

イカとクラゲもできるくらいに

 

Σ(・ω・ノ)ノ!
 

詳細に深く、1から教えてくれるので、

 

「キリストってなんぞや?」レベルの日本人でも

全く問題ありません。(-∀-`)

 

もちろん、イエス様の生涯や

イエス様が何をなさった方なのか、ということも

1から教えてもらえます。

 

ただ“信じれば救われる、天国に行く”と

お経のように唱えられるのではなく、

 

何の為にキリストは現れたのか、

 

日本人の自分と外国人のキリストに、何の関係があるのか

 

自分自身にとって、そもそも必要な存在なのか?

 

という疑問にも、正確に答えてもらえます。

 

ここに全てを書くことはできませんが

ものすごく簡単に言うと、

 

キリストによって私たちは“暗闇“から解放され

自由になることができる、ということを

教えてもらえマス。( ・∀・)σ

 

 

そして、もう一つ。

『真理』というのは、神様の御言葉のことであり

神様が創られたルールや法則のことでもあります。

 

摂理では御言葉が滝のように溢れているので、

同じ話を何度も聞くことはあまりありません。

 

礼拝ではいつも真新しい内容が話されますし、

全く同じ内容の説教がされることは、まずありません。

 

そしてその内容は、

歴史的な書物である聖書を無視して

話されることも絶対ありません。

 

 

むしろ、聖書の「なんじゃこりゃ?」を

解消してくれる話ばかりです。

 

だから、聖書が「分かる!面白い!」に変えてくれるのです。

人´ω`)♪

 

では、

真理によって

どんな風に自由を得られるのか?の一例を

紹介して終わりたいと思います。

 

神様は、

私達が誰かから害を被った場合、

“ゆるしなさい”

という法を与えました。

 

聖書には、何度許したらいいのかについて

7回を70倍、つまり490回は許すように、と

イエス様が語られているシーンがあります。

 

この御言葉は、

私達にどういった自由をもたらすと

思いますか?

 

 

分かりやすいように、逆説的に考えてみましょう。

(。-ω-)ノ

 

仮に神様の御言葉(真理)が、

 

自分に害を与えた者には、その害の重さと悪質さに間違いなく相当する量刑を与え、絶対にその刑を終えるまでは許してはならない。

 

だとしたら、どうでしょうか?

 

きっとこの御言葉を忠実に守ろうとしたら

その害の重さと悪質さを調べる為に途方もない時間を費やした上に

害を与えた人が刑罰を受けている期間、

恨みと憎しみ、決して許していけない!という

気持ちに支配されて疲れ果て

 

到底、自分自身の人生を楽しむことは

できないでしょう。

 

司法の世界の限界を見れば分かります。

 

罪の詳細を調べる時間も無ければ

マンパワーも無く、

 

誰かの事情と利害関係によって冤罪は防げず

 

もっと罪を重くしろ、軽くしろと言い合って

 

量刑を正確に定められる人間などいません。

 

 

被害に遭った人は、裁判の期間

まともに自分の人生を楽しめず

自分の人生に必要なことをする気力と体力を奪われて苦痛を受けます。

 

犯人が捕まらないこともあれば

人間の法によって裁かれないこともあるわけです。

 

 

このような中で、

神様の“ゆるしなさい”の御言葉の中には

 

神様が一点一画も違える事なく

正確に行なった通りに報いられるから

 

〈裁き〉は神様に任せてしまいなさい。

 

ということを前提にして仰っていることです。

 

だから

『あなたは、害を受けたそのことに支配されずに、

あなたの人生を生きなさい。

神である私が報いよう。』

 

ということなのです。

 

人が誰かを許さずに生きることは

その人自身をそのことに縛りつけ、

憎しみと恨みに精神が蝕まれます。

 

残りの人生全てまで

奪われてはいけないのではないですか?

 

そのような苦痛と、損をすることから

神様が解放し、心の自由、人生の自由を

得させる。

 

これが真理によって自由を得たことになります。

 

心の自由が無ければ、

何を許諾されていても、

辛く苦しい人生になってしまいます。

 

誰かによって、または自分自身によって

縛りつけられた価値観に

切り込みを入れて裂いてくれる。

 

新しい認識と価値観で解放させてくれる。

 

それが

真理によってもたらされる【自由】なのです。

 

 

全知全能なる神様を信じて、永遠に、永遠に生きることがどれほど大きいのか。

 
そのように生きたとき、お金を稼ぐことも楽しいし、芸術も楽しいし、働いても楽しいし、寝ても楽しいし、生きることすべてが楽しいのです。
 
神様に仕えて、愛して敬って生きる。
そのように生きる時、楽です。
 
それによって全体に、理想世界が成されます。

 

 

 

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