ハレルヤ! あおです。(๑˃̵ᴗ˂̵)و
人は誰しも
“このような自分でありたい”
という、自分なりのポリシーや
【信念】を持って
“自分の在り方”を決めているように
思います。ヽ(・∀・)ノ
もちろん、
日和見主義といったこともあれば
自分の信念だけでは
どうしようもない…
ということも、
時にはあるでしょう。
しかしそれでも、
《私はこうありたい》
という強い信念を元に
意思決定する場面は
多かれ少なかれ
人生の中で訪れると思うのです。
そしてそれ(信念やらポリシーやら)が
時には
その人の
【生きるチカラそのものの質】
になることも
あるのではないか?
という〈仮説〉
を立ててみました (´∀`*) ハハ
(ぇぇ、
私のブログですカラ自由です) (。-ω-)ノ
さて、
なぜそんな持論を展開し始めたかと言うと
私自身の過去を振り返ってみて
気づいたことでした。(*・ω・)ノ
私の家庭環境を知った人(は少ないですが)
からは
わりかし、
「そういう家庭環境だった人には
見えないね! 」
とか、
「よく いい子に育ったね」
と、言われたりするんですが
( イイコ…(-∀-`)ホホ 笑)
自分でも
「なんでグレなかったのかなぁ? (-∀-`)」
と考えてみた時、
私が小学生の頃から
“自分のポリシー”
にしていた考えが原因ではないか?
と、思い当たったのです。
それは、
『自分がたとえ
(その人から)愛されることが
なかったとしても、
私は
(その人を)愛する人でありたい』
という信念です。
愛は、神から出たものなのである。
すべて愛する者は、神から生れた者であって、神を知っている。
ヨハネの第一の手紙 4:7
それが小学何年生からだったのかは
記憶がありません。
そして、
“なぜこのような考えをしたのか?”
その細かい経緯も不明です。
ミ(ノ_ _)ノ
物心ついたくらいの
2◯年前のことですからね…(-∀-`)
でもこの聖句を見てみると、
神様がひそかに
私に考えを与えてくださっていたの
かも
しれません (´◡`) ネ*。
神様は、
今日も
〈隠密に〉
〈ひそかに〉
人を育てていらっしゃる
もようです。
現場からは以上です! !
(*・∀・)ノ。:.゚アンニョン*